政府によるクーデター 6.30-7.01


あゝをとうとよ、君を泣く、

君死にたまふことなかれ、

末に生れし君なれば

親のなさけはまさりしも、
親は刃(やいば)をにぎらせて
人を殺せとをしへしや、
人を殺して死ねよとて
二十四までをそだてしや。




君死にたまふことなかれ、と

集団的自衛権のゆく先を憂いたのか
焼身自殺を試みた男性
とても動揺した
そして色色想い路上へいきました









同じ思いだろうが違うだろうがどうでも良くて
戦争反対と焼身自殺をした一人の生命に物凄い動揺している
種を沢山蒔いても草を沢山刈っても全然まだ動揺している

官邸前議員会館前自民党前駅前何処でも善い路上へ路上へ

戦前か革命前か君次第僕次第君は僕僕は子や孫

抵抗抵抗てーこーてーこー戦争放棄せんそーほーき

タネ蒔くタネ蒔く



抵抗不服従


音楽を楽器を路上に




今日労働者である責任はない、今日会社員である責任はない、今日公務員である責任はない、今日百姓で、今日学生で、今日主婦で、今日何かである責任はどこにもない。
路上へ。
放棄せよ。
蜂起せよ









大阪自民党本部前
6.30
怒りに満ちている
平和を伝えようにも
怒りに満ちている






官邸前


(via / 坂憲一)

みんなで憲法9条読み上げています。

1.日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2.前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
 — 場所: 首相官邸











(via / ameen)




徴兵から逃げます
ボリス・ヴィアン



大統領殿


お手紙を差し上げます

お時間さえあれば

お読みいただけるでしょうか


たったいま召集令状を

受け取ったところです

水曜日の夜までに

出征せよとのことです



大統領殿


私は戦争をしたくありません

この世に生まれたのは

かわいそうな人たちを殺すためではない

気分を害されるかもしれませんが

はっきりと申し上げます


私は決めました

徴兵されないよう逃げます


生まれてこの方

父が死ぬのを見ましたし

兄弟たちが戦争に行くのも

自分の子どもたちが泣くのも見ました

母はあまりに苦しい思いをして

今は墓の中です

もう爆弾もウジ虫も

気にならないようになってしまったんです

私は捕虜だったときに

妻を奪われました



魂も奪われました

大切な過去も一緒でした



明日の朝早く出て

別れを告げようと思います

失われた年月にさよならを言って

旅に出るのです

フランスの各地で

物乞いをして生きていこうと思います

そしてブルターニュからプロヴァンスまで歩きながら

皆にこう言います



従っちゃダメだ

戦争をしちゃダメだ

戦争に行ってはいけない

いっちゃダメだ

血が必要なら

あなたの血を使ってください


大統領殿

あなたは何かを隠していらっしゃる

もし私に追っ手をかけるなら

憲兵に言っておいてください


私は武器をもっていませんので

撃っても大丈夫です


Le déserteur
Boris Vian

ボリス・ヴィアン「徴兵から逃げます」
國分功一郎さん訳










7/1




辺野古からジュゴンさんきてる


それ自体は平和でないファックな声が多くて
耳を塞ぎたくなった
けれども考え直してもみた



非戦
私達はそれぞれが独自の活動を進めながら、多種多様な、そして現実に私たちの視野には見えていないような運動をも「仲間」意識を媒介とすることで、仲間としあう=不可視の「連合」をしっかりと見定めること、こそが、連帯の始まりです。

仲間が権力と戦っている時、自分は何もできなくても、(ィ)仲間を非難しない(ロ)そのやり方に賛同できなくて、参加しなくても、妨害はしないことが、仲間であることの「必須条件」である。

仲間かそうでないかの一線を引く、最もはっきりした区分は、今その人が権力の側にあるか、そうでないかだ。そうでない人たちは、すべて仲間だ。どんなに意見が違おうが、やり方が違おうが、仲間の側にいる仲間だ。向井孝


非暴力直接行動
(イ)それゆえ非暴力直接行動は、闘いであっても勝敗でない。勝敗にこだわるものでない。負けても負けても負けてしまわぬことにおいて「生きていること」あるいは抵抗行為である。それがわたしたちの「生きる」という意味を意味化する非暴力直接行動の意味である。
 
(ロ)負けてしまわぬということの意味は、ぼくらの一瞬にも似た「生涯」を以て、歴史をすべて引き受けるのではない。責任をとらぬということだ。つまり、歴史に決着をつけえないまま、過去からつづくいま、即ち現代史をぼくらは生きる。その無責任さの「積極性」において非暴力直接行動は普遍的であり、より日常化するのである。
 
(ハ )そこでぼくらは、ぼくら(人民)の無限定でほとんど無自覚な「自由連合性」に依拠して、自分のやりたいこと、やれそうなこと、やりやすいこと、そしてたまたま、眼前にあってさけがたいことなどに対処して、「無責任」に何でもやればよい。一方、いやなことはしない。できぬことはやらない。それが積極的であればあるほど非暴力直接行動だ。

(ニ)もちろん、やろうとしてもやれぬということも当然出てくるだろう。(現在の問題はほとんどこれだといつてよい)

それに対しては、同じやり方、同じ方法でやって、いつも同じ負け方で負けるのではなく、やり方をその都度都度にかえること、つまり負け方を変えること、あきらめず変えたやり方で対処しつづけることしかない。寝入りぱなの蚊、五月の蝿のようなものとして、ちょっぴり、やり方を次々に変える、ワイワイカセヤガヤその過程の中の非暴力直接行動を面白さとしてたのしむのである。向井孝

via / vj







self defense
私達の自衛についての解釈

私たちは
私たちの自衛についての考えを
これからも路上で話し合い
実践していこうではないか

自営だし