20160526

味覚に革命が起きる "ささたくや サラダの本 "


ささたくや が
サラダの本 を届けてくれた。


味覚に革命が起こる、と
帯に書いてある。

革命、と聞くと
読まずにはいられないわけで。



丁寧にレシピに添えられた
物語、と詩。


あまり内容に触れても勿体無いので 
「ふたこと」ばかり抜粋すると
raw food な彼の
野菜に、
植物に、
接する言葉に
なんだか
僕の畑と重なりがあって
そこをフューチャーしてみる。


『生きた命をそのままいただく食事』

を実践してるということになる
と書いてある。



これは畑にいると
全く当たり前の話なのだけれど
すべて生きている。

種、も生きているし
発芽して、葉が出て
大きく背を伸ばし
花を咲かせたり
実をつけたり
また種になって
枯れたり。



その植物の一生のうちの
一瞬を捉えて
私たちは 刈りとって
食べる。



たとえば、今、まさに、ないちご。

畑を始めたばかりの頃に
いちごの苗を沢山いただいたので
まだ未開墾だった
セイタカアワダチソウを引っこ抜いて
いちごの苗を植えた。

冬を越し
春になって
いちごが成った。

その頃は do nothing が
超かっこいいStyleな時代だったから
春が過ぎて
またセイタカアワダチソウに
覆われても放っておいた。

そうしたら
背の低いいちごが
背の高い草におおわれて
いなくなってしまった。

と思ったら
翌年の春には
セイタカアワダチソウの生えてない
溝の向こうに
ランナーを伸ばして
集団で!
ゴッソリ!移動していた!

いまは
その、いちごの背を越えないように
ぼちぼち草を刈り
大切に増やしている。



個々も生きているが
彼らはまた、集団でも生きている。

 

クレソンなどは
大雨の時に
根っこごと外れて
水に流されて
緩やかな流れの所で
また根を下ろし
違う集団となる。


また、

『習うのではなく考える』

とも書いてある。



僕は畑のやり方を
いままで教わったことがない。
ゆえに、ひとつの野菜が
食べれるようになるまで
とても時間がかかる。



昨年冬に咲かせた
いただき苗のレタスの花。
無数の種を落として、
今年の春に
レタスの芽が群生した。

群生したレタスは
ベビーリーフ的なサイズの頃に

密集していては種を残せない

と勘付いて
ある程度の広さに対して
ひとつふたつ、の株だけを残して
みな消えた。



種を採って
キチンと播けば
沢山作れたのかもしれないが
植物の命が循環するのを
見たかった。



あれだけの種から
ふた株しか残ってない。
そんな自然。

残した強い株に
種の保存を託す
当たり前の循環に感動する。


で、無施肥なら
どれくらいの広さで
ひと株が生きていけるのか
も、わかる。



サラダやスープ、スムージー
なんかのレシピと

レシピひとつひとつが
出来上がるまでの自分史が
載っているのだけれど

全部の皿に
自然な風景、情景が思い浮かぶ
料理の写真が
まるで詩のように
散りばめられている。

で、食べたくなる。
作ってみたくなる。


ひと皿ひと皿に
世界がある。



手が届く世界だけを
美しく満たしていく、のか

どんどん、と情報をとりいれ
大きな世界に怯えて暮らす、のか

大変に難しい問題である。



鎌ひとつ、人力で畑に向かっていると
草に覆われないようにするだけで
人間ひとりが立ち向える世界の
大きさなんて、たかが知れている。


所詮私たちは
何か植物、が繁栄するための
媒介に過ぎない。



そうなると
ひと皿に全精力を込めて
瞬間を暮らすことには
とても美しさを感じる。



ささたくや やるなあー。

1979年生同級生。



私たちは 
自分の自分による自分のための
生活革命を
求められている。

僕が思うに
肉食か、菜食か、は
それほど意味はなくて
と、いうのも
菜食であれ
植物という生命を食べているからであって
問題があるとすれば
生産及び料理方法が
語るべきことであって
そのひと皿を
食べたことに、どれだけ
感謝や感動をできるか
というようなことを
教えてもらえる本だと思う。


とっても刺激になる本。
















サラダの本に
一切顔出ししてないから
写真撮ったったー

28日発売だって
うまくことが運べば
yamsai にも置いてる予定

いい本。

サンキューイ!










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