20150127

闘争

高田 保

けんかに哲学は役立つまい。
選挙に知性はどんなものか? 
闘争という言葉がしきりに使われるが、
それだとしたら頭よりも勇気、
精神よりも押しの強さということになる。


条理だった賢明な演説は人を感心させるが感動させはしない。
だから選挙のときには効果がないのだそうである。
この前のとき私はある候補者が壇上で、
ワイシャツの胸を開き毛むくじゃらを会衆に示しながら
「さあここで諸君と命の取引だ。この命売ります。どうぞご投票を願います」
とやったのを見て成程とおもった。
会衆は感心しなかったが感動したのである。
ゆうゆうたる成績で彼は当選した
街頭で「命売ります」の看板をかけた失業青年よりもこの代議士の方がこの商売では先手だったことである。
 
選挙戦術で最も大切なことは相手が群衆だという事実である。
群衆に知性はない。
この説に対しては早速抗議が出るかもしれぬが、
むかし映画が活動写臭といったころの有名な弁士が節回しよろしく
「月は泣いたかロンドンの花ふりかかるパリの雪」
という文句を語ったものだった。
場内のだれもがうっとりと酔ったように聞きほれていたものである。
これは群衆だからであって、
必ずしも無知な連中だけが集まっていたというわけではない。
反省してみたまえ。
立派に知性の持主である君自身が、
芝居小屋の中に入ると下らん新派劇に泣かされて帰ってくるじゃないか。
群衆の一人となったからである。

群衆を説得しようとおもったらイソップ物語がいい、
哲学は全く不要である、
といった哲学者が西洋にいる。
事実あるときのいきり立った国民をなだめるためにローマの執政官はその手を用いた。
胃袋だけがうまいしるを吸うのに憤慨した手と足がストライキを起こしたところ、
たちまち衰弱して手も足も動けなくなったという今も有名なあのおとぎ話である。
なるほどあの「命売ります」の演説も立派におとぎ話だったわけである。

ある人が来て、
今度の国会は国会でなくしてもらいたいものですなといった。
同感ですなと私は答えたのだが、
現在のような選挙でそれを望むことができるだろうか。
闘争的気配が濃くなるらしいのを見ると、
さらに国会的なものが出来上がるだけだという気がさせられる。
これを防ぐためはに、
いかにも国会議員らしい人物には投票するなという運動を起こすより外はあるまい。