農藝としての農園とは。
「藝」の本質は作品をつくることではなく、関係をつくることにあります。
農業が「収穫」を目的とするなら、農藝は「関係」を育てることそのものが表現になります。
トマトが色づく一方で、人参は種を結び、稲は分げつし、こんにゃくは地下で芋を育てています。
あるものは始まり、あるものは終わり、あるものは来年の準備をしています。
その一方で目には見えない場所でも、菌類や細菌、微生物たちは絶えず有機物を分解し養分を循環させて生態系を支えています。
農園全体が「完成」する日はありません。
農藝としての作品は、静止した一点ではなく、時間そのものです。
毎日少しずつ景色が変わり、今日しか存在しない畑が現れ、翌日にはもう消えています。
その連続が作品になります。
多くのアートは観客を必要とします。
しかし農藝では、誰も見ていない日がほとんどです。
草が伸び、水が流れ、虫が花粉を運び、菌が働く。
その変化を知っているのは、その場に居続けた百姓だけかもしれません。
百姓は作者であると同時に、唯一の鑑賞者でもあるのです。
毎日畑を歩き、「昨日より稲の色が深くなった」「この草は残した方が景色がいい」「ここにカエルが戻ってきた」と読み取る行為は、作品を鑑賞している時間でもあります。
しかし守ることもまた、生態系への参加。
毎年、トマトにはカメムシが集まり、とうもろこしにはアワノメイガの幼虫が入り込みます。
せっかく実った野菜が、収穫までたどり着かないことは珍しくありません。
食べられずに終わる実のほうが多い年もあります。
「自然というなら、そのまま虫や動物に食べられるのが正しいのではないか。」
そう考えたこともありました。
でも、虫も鳥も獣も、生きるために食べています。
私たちもまた、生きるために実りを守ります。
自然に明け渡すことでも、自然を支配することでもありません。
生きものを根絶するのではなく、必要な実りを守りながらともに生きる道を模索しています。
「藝」の本質は作品をつくることではなく、関係をつくることにあります。
農業が「収穫」を目的とするなら、農藝は「関係」を育てることそのものが表現になります。
トマトが色づく一方で、人参は種を結び、稲は分げつし、こんにゃくは地下で芋を育てています。
あるものは始まり、あるものは終わり、あるものは来年の準備をしています。
その一方で目には見えない場所でも、菌類や細菌、微生物たちは絶えず有機物を分解し養分を循環させて生態系を支えています。
農園全体が「完成」する日はありません。
農藝としての作品は、静止した一点ではなく、時間そのものです。
毎日少しずつ景色が変わり、今日しか存在しない畑が現れ、翌日にはもう消えています。
その連続が作品になります。
多くのアートは観客を必要とします。
しかし農藝では、誰も見ていない日がほとんどです。
草が伸び、水が流れ、虫が花粉を運び、菌が働く。
その変化を知っているのは、その場に居続けた百姓だけかもしれません。
百姓は作者であると同時に、唯一の鑑賞者でもあるのです。
毎日畑を歩き、「昨日より稲の色が深くなった」「この草は残した方が景色がいい」「ここにカエルが戻ってきた」と読み取る行為は、作品を鑑賞している時間でもあります。
しかし守ることもまた、生態系への参加。
毎年、トマトにはカメムシが集まり、とうもろこしにはアワノメイガの幼虫が入り込みます。
せっかく実った野菜が、収穫までたどり着かないことは珍しくありません。
食べられずに終わる実のほうが多い年もあります。
「自然というなら、そのまま虫や動物に食べられるのが正しいのではないか。」
そう考えたこともありました。
でも、虫も鳥も獣も、生きるために食べています。
私たちもまた、生きるために実りを守ります。
自然に明け渡すことでも、自然を支配することでもありません。
生きものを根絶するのではなく、必要な実りを守りながらともに生きる道を模索しています。