20201214
「コロナとともに。新しい暮らし方とその仲間たちのために」
というテーマのmarketに出店させてもらいました報告。
正直、禍に入ってから例の国家による「経済止めてみました」の期間を経て、「やっぱり止めると苦しいだろう作戦」を越えて私たちの生活を何か変わりましたか、と問われるとanswer.ナニモカワリマセン、が答え。
3.11の政府のミスによってundergroundで私たちの精神下で培われた循環しないものとの訣別し、非常識を常識に定着させたまま暮らしてきた私たちとその仲間によるサヴァイヴ能力、統一的農耕採取イマジンもひと段落を迎えて、その上で一周して再び個々の才能と技術と芸術性によって「新しい暮らし方」も、たとえば兵器を花束に変えてさらに「実験と実践」を踏まえて落ち着いた日常を送っている最中の出来事であったのです。
そうなると大地に根付いた私たちの暮らしは、会う友には毎日のように会い、会わずともSNSでは測れない決して忘れているわけではない仲間たちと彼らが生み出した生産物や芸術品によって構成された今、さらに新たな仲間が必要かと思われた矢先のmarket。で実感したのは世代間文化を構築するのに若い人にきっかけ作る必要があり、それは私たちの世代の今現状必要とされる行動ではないのかということ。
革命は緩やかに遂行され日々のnewsは頭上を通り過ぎただ季節が変わることに目を向けて穏やかに暮らしている最中に、さてこれ以上のアクションは何を生み出すのかというと全身全霊でpassthemicrophoneして「経験と体験」をもって学んだ「学べないこと」をリレーしていく作業工程が任務のような気もする。きっかけや気づき、などという言葉は人々を騙しやすくより脳を硬質下させる甘い誘惑であることは明らかである。発酵物をワークショップし、エディブルフラワーを散りばめた夕食をinstagramにアップしたところで世界はまるで変わりなく丸い。光が当たる裏側はといえば相変わらず闇のまま。
しかし私たちはとにかく忙しい。「食べることと眠ること」以外に何もせずともいいのではある。ではあるが、「食べるための支度」は二つ前の季節の種まき、ものによっては何年も前、時には何世代か前に植えられた樹々によって始まっている。「眠るための支度」などといえば暖をとるひとつにしたって数億年前の微生物の亡骸によって支えられている始末である。
話が壮大になればなるほど鬱が増幅して私たちは無力になる。投票である買い物や実際に投じる一票は税金に形を変え、また誰かの私腹を肥したり、肥した様に見える誰かへの愚痴でガス抜きされて消費されてゆく。また鬱を取り払うための躁はそうそうマインドではこなせないものではあるので消費や浪費をもってして補う。こうなると非常に苦しい。あるものでどうにかこなす、誰かが歌った「粗大ゴミを宝に変える醍醐味」に目を向けてどうせ日が上って日が暮れるまでしか仕事にならないのだからあとは遊んでみるのもいい手だと思って暮らした方が重圧が少ない。
話はどこにいった。
marketの報告は、というとご時世柄主催者の方たちは「覚悟」を持って臨んだとおっしゃっていました。ただ人の集まる市を開くだけに「覚悟」すら必要な時代ってなに。呼応するようにたくさんの人が行列まで作ってくださって買い物してくれた光景はとても素敵でしたが。とてもありがたかったです。ほぼ知らない人に会うことのない生活の中久しぶりに会えた人たちや、関心を持って話してくれる方との会話は心地よいものであっという間の時間を過ごしました。後半はよく冷えたのでご来場くださった方が風邪など引いてませんように。数年前にひととおり終わった市への熱も「新しい暮らし方」を模索する誰かへの時代転換機の集会場として参加するのも悪くないなあと、相互監視の目をさけて楽しみたく思うわけです。
さて全く関係ないのですけれど片付け終えて火を焚いて珈琲のんでさらに温泉までいただいたあと、フランス映画だと思って見始めた、カトリーヌドヌーヴとマノンルノワールの「演技と非演技の境の演技」に圧倒的に持っていかれた「真実」という映画、今朝是枝監督だと知って驚いた。綺麗な映画だったなあ。まだの人はぜひ。
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